1874年のロンドン。
2人の男が全盛期の大英帝国の指導者の座を争っていた。
自由党党首ウィリアム・グラッドストンと保守党党首ベンジャミン・ディズレーリである。
政権を獲るのが自由主義者のグラッドストンか帝国主義者のディズレーリかにより世界情勢は大きく変わる。
(そもそも「帝国主義」と云う単語自体、ディズレーリの反対派が彼を批判する意図で産み出した造語である。)
全世界がこの選挙の行方を見守っていた。
そんな世界情勢の中。
投票日の一週間前に一人の女性がグラッドストンとディズレーリと会食する機会を得た。
メディアはその女性に両雄の印象を尋ねた。
「グラッドストン卿とお話した時は、卿こそが世界で一番賢明な方だと云う印象を受けました。」
「ですがその後、ディズレーリ卿とお話した時は、私が世界で一番賢明な人間だと思えました。」
「メディア」はディズレーリを絶賛し、指導者に相応しい真のカリスマと喧伝した。
(陰湿なネガティブキャンペーンである。)
1週間後の選挙でディズレーリ保守党はグラッドストン自由党に大勝し、大英帝国の首相の座を獲得する。
首相となったディズレーリはロスチャイルド家との密接な関係を利用し、徹底した拡張政策を採る。
故に、この逸話は、「人望の獲得に必要な要素は相手の自尊心を引き出せる人間だ」、と主張する者が好む。
無論、この説は真理の一部でしかない。
そもそも、自由党の大敗はグラッドストンの外連味のない健全統治(外征に消極的)が飽きられたからに過ぎないし、
(ディズレーリに疲れた大衆は、その後グラッドストンを首相に選ぶ。)
何より、自由党大勝の前夜に食事をしたとしても、グラッドストンはグラッドストンであっただろうし、ディズレーリはディズレーリであったに違いないからである。
だが、この逸話は大きなヒントとなる。
キャラクターや自己の印象はある程度、調整可能なのである。
小説家ディズレーリ
人気作家アイザック・デ・ディズレーリの息子として生まれ、自らも人気作家であったディズレーリの対人感覚・対大衆は相当な物で、そのコミニュケーション能力は多くの人間を魅了した。
特に女性には好かれ、
「もしも婦人参政権時代に生まれていればディズレーリの政治力は更に盤石となったであろう」
と評されている。
(英国紳士はこうやって「グラッドストン」を讃えるのだ。)
これ程のコミュ力の持ち主が選挙戦略に利用した手法なのだから、「人望を得る手段」としては相手の自意識を満足させる事が一番に決まっている。
人間は例え上辺の態度であったとしても尊重される事を好むし、
反対に真心の態度であったとしても自分が尊重されない事を厭う。
故に、人望を得る為にはディズレーリ的振る舞いは有効なのである。
但し
但し、相手を尊重する事が人望に繋がるのは、こちらが相手から一定の敬意・評価を獲得している場合の話である。
例えば、ディズレーリと会食した女性が喜んだのは、「自分が世界一賢明だと機略縦横のディズレーリが思わせてくれたから」である。
もしも、女性が日頃軽侮している相手と食事を取ったとしても、「アタシすら世界一賢いんじゃないかと感じるアホと食事を同席してしまった。」、との印象を持って終わりである。
相手男性の好感値は絶対に上がらない。
こちらが相手から全く評価されていない場合、相手を立てて喜ばせる事は出来ても、それは人望やカリスマには繋がらない。
社内で馬鹿にされている上司・経営者がどれだけ部下を尊重した所で、そこから人望は発生しないのである。
繰り返す。
ディズレーリ的振る舞いによる人望獲得は、その対象から一定の敬意・好意を持たれている場合にのみ可能である。
それがない場合に、コミニュケーションで相手を満足させたとしても、それは「人望」には繋がらない。
「人望」とは優越性の認知を獲得した上で、更に好意的な支持を得る事だからである。
価値観の多様化した社会では、自身の優越性を証明する事は難しい
江戸時代は殿様と足軽の格差が懸絶していた。
家柄も教養も資産も名声もコネも、全てにおいて君主は雑兵に優越していた。
最初から優越性が確保されているので、カリスマの獲得は比較的容易だった。
一方、現代社会は生まれながらに優越性を確保する事が非常に困難である。
国民の生活水準や教育レベルが向上し、レベルの低い経営者や管理職が労働者に対して全方面で優位性を発揮する事が今まで以上に困難になってしまったからである。
江戸時代の殿様・家老は絶対に足軽中間以上の家柄・教養・資産・名声・コネを保有していた。
だが、現代では地方自治体の首長・上場企業の経営者クラスであっても、自分の下位者に対して全面的な優位性を持つ者は少ない。
ましてやこの時代の転換期である。
自身が常識・教養・学識と信じて身に着けて来たものが、若い下位者から見た負債である可能性すらある。
(例えばマルクス主義への理解度やバンカラ思想など)
故に、人望を得ようとする場合に、必要な土台(相手からの最低限の敬意)が最初から欠落している為に、
如何に相手に迎合・恫喝しても全く指導力に直結しない事態に繋がるケースに陥る。
「自分は社長だから、労働者からある程度尊敬されてるだろう」
「自分は上司だから、部下から一定の評価はされている筈だ。」
「自分は先輩だから、後輩から少しは敬意を持たれるべきなのだ。」
これは評価軸が少なかった単一価値時代の発想である。
現代の下位者はこんな言い分に絶対に耳を傾けない。
現代情報社会では評価軸が多様過ぎて、一つの評価軸上の優位性のみが評価されると云うケースが少ないからである。
また、社会的地位が個人の部分的才覚に左右される現代では、地位向上に直結しない教養・学識・礼儀作法の伝承が家庭教育で割愛されがちである。
故に、かつての「この社会的地位の人間であれば、このレベルの教養は身に着けていて当然。」と云う常識が修め切れなくなっている。
すると、四書五経を修めたアルバイト青年と、「論語」と云う単語すら知らない経営者が生まれてしまうのである。
(庶民教育の行き届いた江戸時代はともかく、通常の封建社会でこのケースは発生しにくい。)
この経営者がアルバイト青年から人望を勝ち取るには通常以上のエネルギーを要求されるし、アルバイト青年がどれだけ良心的忠義を保有していた所で自分を騙すストレスは大きいだろう。
「経営者の質が落ちた」とか、「労働者が小知恵を付けた」とか云う議論をするつもりはない。
単にそう云う時代なのである。
故に現代情報社会で人望を得る為には、
「こんな時代に一時的な立場の優越性位を人格全てに適応して貰う事は不可能に決まっている」
との当然の認識を表明する事である。
時勢を解さない者よりも解する者の方が評価されるに決まっている。
それを踏まえた上で、対象との利害が共通する軸をクローズアップし、対象に対して実績と能力を偽らずに開示する事である。
共通軸以外の評価を欲張らない、と言い換えても良い。
例えば、上司である事をだけ理由にアフター5での敬意までを得ようなどと云う泥棒的なおこがましさは捨てるべきなのである。
それが出来ない人間がこの多様化社会で評価されるのは難しい。
それを踏まえた上で、ディズレーリ的な相手の自尊心を満たす言動を心掛けるのである。
結びに代えて 【張飛の末路】
三国志に登場する張飛益徳は、漢史にその名を轟かす猛将である。
単に腕が立つだけではなく、知略・機転もあり、容貌も端正であったが下位者からの人望が無かった。
君子を敬愛する癖に、兵卒に粗暴だったからである。
故に、劉備軍が膨張し、彼が単独の指揮官となる度に問題が発生した。
下位者にとって上長に服する条件とは、「服する事が自身の損害とならない場合」だけである。
張飛は虚勢を張らずとも充分に上長たる威と戦歴を備えていたが、酒乱の暴君であり、その存在は潜在的に下位者の脅威であり続けていた。
そんな彼が義兄関羽の弔い合戦の準備と謳い、
「全軍喪服姿で出陣する。 三日以内に白装束を全員分準備するように。 準備が出来なければ死刑。」
と命じた。
その瞬間、部下達にとって張飛は心の中だけのみならず、命を脅かす敵となった。
故に当然の報いとして殺された。
「私は能力があるのに人望を得る事が出来ない。」
と嘆く者を観察していると、彼らは多かれ少なかれミニ張飛であり、その能力・胆力が周囲の脅威・不利益となっている。
客観的に見れば、人望以前の段階の話であるのだが、当人はその構図に気付かない。
主観の強すぎる者は、周囲から見た自分を正しく想像する事が出来ないからである。
ディズレーリ云々を論ずる段階ですらない。
だが、多くの失敗者はこの初歩が解らずに首を傾げるのである。
人望は、その能力を相手に認知されている者だけにこそ得る資格がある。
人望は、その能力を相手の不利益に使用しない者だけにこそ得る資格が与えられる。
人望は、相手の美点を評価し尊重する者にこそ集まる。
まずは、自分自身がこの3点の条件に照らし合わせてどうかを精査して欲しい。
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私も早く、人望が厚い底辺様のようになりたいと思います。
2015年2月6日 10:08 AM | 台湾 |
台湾様へ
私は自分が欠陥者である事を踏まえる事こそが、人望とまでは行かなくとも信用に値する資格だと考えております。
(そして、私は欠陥の多さに日々苦笑させられているのですが)
勿論、自身が人望を得る事がベストだとは思います。
ただ残念ながら、自分が「衆望を得るに値しない」と判断した場合は、衆望を得るに相応しい人間を応援する事が最良解なのではないか、と記事を書き終わった今感じております。
台湾様に衆望が集まる事を願っております。
2015年2月6日 10:43 AM | teihen |
底辺様へ
御返信ありがとうございます。
上から目線で大変失礼なのですが
先日底辺様と対談をさせて頂いた所、
私は底辺様が人望をすでに得ていて
信用に値する人間だと信じております。
これからも底辺様と上手く付き合って行けるように
頑張っていきます。
2015年2月6日 11:13 AM | 台湾 |
>ディズレーリ自由党はグラッドストン保守党に大勝し
底辺さん
これ多分政党が逆だと思います
2015年2月6日 12:36 PM | 匿名 |
11:43様へ
ありがとうございます。
ただ、人望の域に達する事が全く出来ていない事は自覚しておりますので、自分なりに修練を続けていきたいと考えてます。
12:36様へ
御指摘に感謝します。
こっそり入れえ替えておきますね。
2015年2月6日 2:33 PM | teihen |
人間の信用の積立実績こそ人望。
驕らずに人心の収攬に努めたく思います。
2015年2月6日 5:46 PM | 1000$ |
いつも楽しく拝読しております。
最下層で優越性を何ら持たない私にとって、人望とは此れ如何にと思いましたが、信頼を得るに足るとはどんな人か想像したところ、姿勢・口調・愛想が大事かと考えました。
姿勢を正し、ハキハキとした口調で愛想よく接する人というのは、大方好ましい印象を抱くのではないかと思います。
ただ、これらは小手先のものであり、肝心の内容が頓珍漢なことを言ってたら只の阿呆ですので、相手に敬意を払って、自尊心を満たす言動を心掛けたいものです。
私は早速、姿勢を正して甲殻を上げるエクササイズをしながら、当コメントを書いている次第であります。
2015年2月6日 8:31 PM | 無農洋梨 |
1000$様へ
お互い地道に色々と積み重ねていきましょう。
無農洋梨様へ
特に、ハキハキと云うのは一番大事な要素であり、他のどの点が優れていても明朗に話す事が出来ない人間は、信望を勝ち取る事が出来ません。
リーダーシップに優れた方を観察していると、みな一様に通る声で話している印象があります。
きっと洋梨様のエクササイズはいつか実を結ぶ事でしょう
2015年2月7日 9:36 AM | teihen |
人望を得る以前に
軽侮されないことが大事かとも思いますが、
底辺さんは、どんな人が
「軽侮」されやすいとお考えでしょうか?
これも、必ずしも能力に比例するものではなく、
「ドジだけどにくめない奴」
とか
「成績はいいけどコミュ障でバカにされてる奴」
っていますよね。
周囲に対する敵意・社会性の有無によるものかな?
2015年2月7日 3:39 PM | 匿名 |
3:39様へ
あくまで私の主観ですが。
軽侮され易い方には、「自分が勝てる土俵」を持たない方が多いような気がします。
「芸は身を助く」と云う言葉がありますが、何か一芸に秀でる事は立身以上に所有者の精神状態を大いに救済するのです。
裏返せば、勝てる軸が全くない人間は他者とまともに渡り合う精神状態が保てない。
そして、そんなメンタルは周囲に簡単に見抜かれてしまうので、侮りの原因になる。
以上が、私が考える「軽侮」のメカニズムの一つです。
2015年2月7日 5:37 PM | teihen |
>裏返せば、勝てる軸が全くない人間は他者とまともに渡り合う精神状態が保てない。
>そして、そんなメンタルは周囲に簡単に見抜かれてしまうので、侮りの原因になる。
自分もこれですね。
「勝てる土俵」を探して色んなことをかじってみましたが、いずれもものにならず。
振り返ってみると、不器用かつ飽きっぽくて、勝てる土俵だったとしても勝つための努力を怠っていた、というのもありますが…。
「勝てる土俵」だからこそ勝つのが面白い、だから頑張れるということもあるかと思います。
まあ、地道な努力ができない、そして不器用な奴は「勝てる土俵」を探し当てるセンスにも欠けてる、ということもあるんでしょう。
2015年2月9日 1:53 AM | 無能 |
1:53様へ
「飽きっぽい」と云うのは見込みの無さを見切る速さに繋がるので、あながち悪い事ではありません。
そのタイプの人間はひたすら経験ジャンルを増やして、「ある程度戦える土俵」を模索する事に向いてます。
「熟達出来るジャンルと出逢えれえばラッキー」
と云うスタンスで回転数を上げる事を推奨します。
2015年2月9日 1:59 PM | teihen |
こんばんは。
ミニ張飛です。
2015年2月10日 12:31 AM | a |
a様へ
どうか御平穏を。
2015年2月10日 9:30 PM | teihen |
義兄の関羽を考察すると、張飛とは間逆で部下からの信任は篤いみたいですね。
部下の周倉などが関羽に殉じたりと。
ただ孫権という取り引きの社長を怒らせて、それが死につながってしまいましたね。
自分は演技しか知らないので、正史は実際のところはわかりませんが。
両者はプライドが高すぎたんでしょうね。
プライドは高すぎてもいけないんでしょう。
2015年2月10日 11:34 PM | 匿名 |
人望は、目標にしたり
こだわるものでなく、あくまで結果、おまけ。
最近はそう思います。
また、他の方へのコメントに対し、
横レスで申し訳ないのですが、
>裏返せば、勝てる軸が全くない人間は他者とまともに渡り合う精神状態が保てない。
>そして、そんなメンタルは周囲に簡単に見抜かれてしまうので、侮りの原因になる。
これは、本当に多くの人が誤解しやすいのですが、
芸・スキルetcと軽侮は
実は関係はないです。
うまく表現しづらく、私もすぐ再誤解しますが、
シンプルにいうとそうなんです。
もちろん、あくまでも私自身にとって、です。
2015年2月11日 7:21 AM | 匿名 |
社会的地位の高い人間の教養が低くなった理由に納得しました。経営活動を通じて人格が陶冶されるものと思ってきましたが、戦後70年、経営者の中にまるっきり倫理を学ばない人間が増えた結果、人格的に優れた方が随分と少なくなったのがその証左でしょうか。
2015年2月12日 8:05 AM | アマカナタ |
11:34様へ
二人共、生まれながらの士大夫階級で無かった為に、そこら辺のバランス感覚が養われてなかったのかも知れません。
また、卓越した武勇も対人能力の向上意思を鈍らせていたのではないでしょうか?
(現代でも腕っぷしが強すぎる人間は、普通の人間が普通に身に着けられる対人感覚を身に着ける事が出来ていなかったりするので。)
7:21様へ
含蓄に富んだコメント、良い勉強になりました。
アマカナタ様へ
勿論、まともな方も居られるのですが、そうでなくとも高い社会的地位を獲得し得る社会構造である以上、劣化は避けられません。
(江戸期の大名統制などは非常に厳しく、社会性の乏しい大名・当主は容赦なく淘汰されていたのですが。)
ただ、IT時代になって、平衡感覚や常識性が問われる場面が増えて来たので、今後生き延びるには修養とステルス能力向上の両方が必要とされるでしょう。
2015年2月12日 10:22 AM | teihen |