最初に断わっておくと、底辺は「会話が得意」である。
見知らぬ人とも仲良く談笑出来るし、
気難しく頑固な職人に可愛がられるように話を持っていく技術も持っている。
それ故か、
「会話の続け方を教えて欲しい」
と、人生で何度か教えを乞われた事があるので、頭の整理も兼ねてここに書き記す。
尤も底辺の場合は、
相手の話を引き出す事に専心しているだけである。
秘訣も秘術もそこには存在しない。
会話を弾ませるコツは、
・相槌を上手く打つ
・相手の尋ねて欲しそうな事を質問する
の2点である。
・面白い話題を提供する
と云うのも、会話を続けるコツだが、
出来る人と出来ない人が居るので割愛する。
【相槌】
「話が続かない」
と嘆いている人の数割には、
そもそも他人の話に相槌を打つ習慣が無い人が居る。
会話をキャッチボールに例える事は多いが、相槌とはミット音である。
どれだけ投げても無音のままなら、ボールを投げる意欲も失せてしまうだろう。
相槌をきちんと打てない相手と話していると、話し掛けている方も不安・不快になる。
相手が話している時は、相手の方を見ながら、うんうん頷きながら耳を傾けるのがエチケットである。
楽しい話題なら、楽しそうに。
自慢話なら、羨ましそうに。
愚痴ならば、共感した表情で。
泣き言であれば、同情顔で。
うんうん頷いて聞くのが、会話のエチケットである。
「会話が弾まない」
と悩む人には、この種の初歩のエチケットを弁えない人が多い。
無論、相槌と言っても、
A 「おはようございます、昨日は暑かったですね。」
B 「はい」
A 「早いかなと思ったのですが、クーラーを付けてしまいました。」
B 「はあ」
A 「妻に見つかって怒られてしまいましたよ」
B 「ええ」
↑ この会話のBの台詞は相槌ではない。
ただの音声に対する反応である。
この様な対応を続けていれば、AはBに対しての会話量を絞り続けていくであろう。
何がいけないかを説明すれば、AはBに対して「話」をしているのではなく、
「会話」を振っているにも関わらず、Bは「会話」に参加していないからである。
「話」と「会話」は全く別物である。
何か、相手に聞いて欲しい特定の話題があって、それを語るのが「話」である。
「会話」とはそれを相手と擦り合せる作業である。
故に、相手が「話」をしようとしているのに、別の話題を持ち出して潰してしまったり、
相手が「会話」を求めているのに、「話」の聞き手の様に機械的に相槌を打つ行為は相手に対して失礼と云う事になる。
(無論、この世で最も無礼な振る舞いとは、他人のコミュ力に勝手に期待して失望する事である。)
上記の会話を翻訳すれば下記の通りである。
(赤文字は発言者の意図)
(緑文字は無難な解答例)
A 「おはようございます、昨日は暑かったですね。」
(挨拶と同意の要求)
「おはようございます。 ええ、とても寝苦しかったです。」
A 「早いかなと思ったのですが、クーラーを付けてしまいました。」
(私事の報告)
「そろそろそんな季節ですよね、僕も扇風機を出さなきゃ」
A 「妻に見つかって怒られてしまいましたよ」
(弱点・恥部の開示)
「それだけAさんのお体を心配して下さっているのですよ。 羨ましいです。」
会話をする時は、発言の属性が何なのかを考えて切り返す事を意識すれば良い。
こちらから振る場合は逆に、意図を明確にして相手が受け答えし易くしてあげる事。
発言の属性には様々あり、少し考えただけでも、
・情報の共有
・共通の敵の確認
・恫喝
・優位性の誇示
・イベントへの勧誘/拒絶
・好意の吐露
等があげられる。
上記の、「相手の尋ねて欲しそうな事を質問する」と云うのは、
これらの意図を察知して、相手が聞いて欲しそうな質問をする事。
別に出来なくとも構わないが、一種の理想形として頭に入れておいて欲しい。
それとは別に、何の意図も無く話し掛けて来る者も居る。
「間が持たない事に怯える人達」
の事である。
このエントリーを読みに来ている方にとっては好ましくない人種かも知れないが、
どうか寛容な心で相手をしてやって欲しい。
彼らの存在が社会の潤滑性を保っているのだから。
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アカン。AとBの会話がちっとも楽しく感じられないし、Aが一体何を求めてるのかすら分からない。
大体間が持たないってそもそも話題が無いからであって、そういう時は黙っておけば良いと思う。寧ろ黙っていて何がいけないの?
・相手の尋ねて欲しそうな事を質問する
↑そもそもこれが難しい。
2013年5月7日 10:06 PM | 匿名 |
10:06様へ
>AとBの会話がちっとも楽しく感じられないし
はい。
会話は時として仕事なのです。
>Aが一体何を求めてるのかすら分からない。
意外とBに気を遣っているのかも知れないし、
知り合いには一応話し掛ける習慣を持っているのかも知れません。
大して親しくも無い同格の相手に優しく話し掛ける人間の7割が、
同情か気遣いか義務感で話し掛けています。
>寧ろ黙っていて何がいけないの?
「沈黙」は敵意と解釈されがちです。
(特に海外ではその傾向が強いです)
黙っているは悪徳ではありませんが、
「敵」と認識されるデメリットが生じます。
2013年5月7日 10:30 PM | teihen |
teihenさま。
>「沈黙」は敵意と解釈されがちです。
そうなんですか。僕は沈黙が続いたら話題がないんだなと思う程度ですが。
僕は世間話が苦手なようです。議題があれは話できるのですが。
2013年5月7日 11:44 PM | 匿名 |
こういうアドバイスで不思議なのは、会話が苦手な人のことをまるで知ろうとしないこと。
問題は、緊張して頭が真っ白なのよ。
こういう指導は、後で家に帰っていくら反省しても、次の機会にはあがってしまって全部飛んでしまっているから意味がないの。
どうやったら緊張しなくなるかをまず教えないと意味がないけど、解決法はないように思う。
そこで会話の方法を学ぶよりも、作業を中心とした労働で会話しなくても生きていけるように努力するほうがまだ役に立つ。
それをやっても会話ができない人は、一流大学を出ようがなんだろうが最低水準の収入で結婚の機会もなく日々の糧を得て生きていくだけでやっとなんです。
2013年5月8日 1:51 AM | 匿名 |
ここは底辺らしく、「会話によらずコミュニケーションを取ったと同じ効果を得る10の方法」とかを期待したい
2013年5月8日 2:21 AM | 匿名 |
出来るヤツと思われるためには底辺さんのtips が有効だろうけど
オレたち真の底辺には、ニコニコしながら、ハイ、そうなんですか? 、そうですね、を適当に繰り返すだけで良いんじゃねーの
ニコニコ顏は微笑と真顔の中間を出せるよう鏡見て研究しr
2014年2月14日 1:11 AM | 匿名 |
1:14様へ
私も極力ニコニコを頑張る事にします。
「笑う門には福来たる」といいますしね。
2014年2月14日 12:43 PM | teihen |
過去の記事への質問で申し訳ございません。
尋ねてほしそうなこと、で思い出したことがあります。
確か徳川慶喜に関連する逸話だったと思いますが、慶喜の屋敷に訪れた者は大抵その屋敷の立派さを褒め称えたそうです。
ただ、ある人だけが屋敷については触れず、屋敷の中に写真が飾ってあるのを見て、それを褒め、慶喜を喜ばせたそうです。
この話が、相手が触れてほしいことを聞いてみる、というものの分かりやすい例の一つになるのでしょうか。
2018年4月27日 9:04 AM | Name * |
9:04様
御三家の御曹司に生まれて将軍職まで務めた慶喜公の屋敷が立派なのは当然です。
何より公人(職を退いたとしても)の屋敷は本人の私物ではなく、公務の為の装置です。
よって、それを褒められても「痛み入ります」とか「恐縮です」としか答えようがないのです。
(無邪気に喜ぶとアホの烙印を押されるので)
ですが、飾った写真は数少ない慶喜公のパーソナル部分が発露したものなので、それに触れられると「私人としての返事」が帰って来る可能性が高いです。
この話は「相手が触れて欲しいこと」と云うよりも、「相手の立場上、触れられて困るか否か」の視点を持たれることを推奨します。
2018年4月29日 9:46 PM | teihen |
ご返信ありがとうございます。
慶喜公の話も解説の通り、褒められてもそう返すしかない、というのは盲点でした。
己の浅薄を思い知ります。
更に思ったことですが、慶喜公の屋敷を褒める、というのは一種の社交辞令だと感じました。
この社交辞令の枠を超えた部分を褒めたり共感を表してからが、例えば写真が趣味であったり釣りや囲碁を嗜む、といったことに恭順を示すことこそが、始めの一歩なのでしょうか?
2018年5月1日 2:15 AM | 9:04 |
9:04様
人間の心の障壁には何段階があり、私的部分は公的部分の内側にあります。
公人と親しむ(そこに正義があるか否かは不明ですが)には、当人の私的な部分に対して接することです。
ただ一定のモラルを持つ相手の場合、私的な交誼が芽生えた瞬間に公的チャンネルを閉じられる可能性が低くありません。
その点は注意して下さい。
2018年5月1日 9:12 AM | teihen |